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2017年04月06日
No.10000083

元湯陣屋 宮崎富夫 社長
老舗旅館の科学的な「おもてなし」
元エンジニア 業界の常識を打ち破る

老舗旅館の科学的な「おもてなし」
元湯陣屋 宮崎富夫 社長

新宿から急行で約1時間。神奈川県秦野市にある鶴巻温泉を代表する老舗旅館「元湯陣屋」は、倒産寸前まで経営状況が悪化していた。だが、4代目社長が「科学的な経営」を導入したことで、その危機を乗り越えた。宮崎社長に再建までの道のりを聞いた。

取材・文=小川竜司(編集部)

「〇〇様、お待ちしておりました」
旅館の専用駐車場に車を停めて約1分後。エントランスでは、仲居さんたちがお客の名前を呼んで出迎える。まるで、その人が到着することを事前に把握していたかのような迎え方だ。
陣屋の駐車場には車番認証システムが設置され、登録された車が入ってくると顧客情報が発報される。
受付を済ませて部屋に案内するまでの間も、何気ない会話から客のニーズをくみ取り、それを即座に満たすような対応がとられる。

陣屋は戦前から囲碁や将棋のタイトル戦が開催されてきた老舗旅館。館内には過去の名人戦の写真などが飾られている。その写真を興味深そうに見ている客がいる。案内をする仲居さんが「将棋に興味がおありですか?」といった話題を振る。興味があるとわかれば部屋には別のスタッフが先回りして将棋に関する書籍を届ける、といった具合だ。
パートを含めた40人以上の全従業員がパソコンやタブレットで客の食事の好みや来店頻度をチェックするほか、急な情報共有や要望に対応する。先のケースでは、「将棋に興味がある」という情報をすぐに社内SNSに上げ、それを見た他の従業員が対応をしたわけだ。

陣屋では「陣屋コネクト」と呼ばれるシステムで顧客管理をしている。開発者は宮崎富夫社長本人だ。宮崎社長は2009年10月に4代目に就任。「情報共有」の必要性を痛感し、すぐにシステム開発に着手。3カ月後の10年1月には現場で活用し始めた。
「顧客情報の共有」は「陣屋コネクト」の機能の一端に過ぎない。勤怠管理やアンケート集計、原価管理や会計処理、売り上げ分析などの機能がそろっており、コスト削減や業務の効率化、厳密な損益シミュレーションなどに活用できる。


陣屋はこのシステムで様々な改善を重ねてきた。一例を紹介しよう。システムを導入する前まで、予約の電話を受けた担当者が手書きの台帳に書き込み、それを転記して毎日の予定表を作成していた。その予定表を従業員の人数分コピーして全員に配布し、当日の予約変更があった場合はホワイトボードに書き出す。顧客情報を共有するだけでも、何工程も経なければならず、それでも連絡漏れが生じ、客からのクレームが発生していた。

「陣屋コネクト」では各自が所持するデバイスでリアルタイムで情報を確認、急な変更があっても、その場で変更内容を書き込むだけ。いつ、誰が、何を変更したのかという履歴も残るので、対応者の責任感も向上。連絡漏れによるミスがほとんどなくなった。
業務連絡はすべて社内SNSに一本化した。従業員は出勤したらログインして勤怠ボタンを押し、その日の伝達事項をチェックする。閲覧したかどうかのチェックもできるので、連絡事項だけの会議はすべて撤廃した。スタッフ全員がこの仕組みに参加することで、「言った」「言わない」「聞いていない」というトラブルがなくなっただけでなく、従業員の手間や業務時間が大幅に減った。

原価管理も徹底した。ニンジン一本、ダイコン一本から原価管理をし、その数字を調理場スタッフが自ら入力しチェックする。廃棄などのロスも減った結果、料理の原価率は40%から30%に低下した。
「お客様の満足を高めるためにはワントゥワンの対応が必要。ただし、効率的に運営しなくては利益が出ない。そして、従業員の満足度が高くなければ良いサービスができない。これらをトータルで高めるためのシステムが必要だと考えたのです」 
運用を開始して2年後にはシステムの外販を始めた。今では全国の旅館やホテルなど、180以上のサービス業や団体が導入している。
それまで、宿泊業でこうしたシステムを使う時には大手企業のものを数千万円かけて導入しなければならなかった。それが「陣屋コネクト」では初期費用は約20万円。ユーザーライセンスが1カ月3500円で利用できる。精度の高さと利用しやすい価格設定はすぐに話題となった。「旅館業界の救世主」と呼ぶ人もいるほどだ。

着物をまとったエンジニア
 
現在は旅館経営だけで約5億円、「陣屋コネクト」のシステム外販で1 億円近くを売り上げ、税引き前利益で7000万円近くを残す。だが、宮崎社長が引き継いだ時は多額の負債を抱え、破産寸前に陥っていた。
2009年に父が他界。女将で社長をしていた母親も病気で倒れるという不幸が立て続けに起こった。その時、宮崎社長は初めて旅館の経営状態を知った。
過去に5億円程度を維持していた売上は3億円を切り、税引き前利益はマイナス7000万円、借入金は10 億円以上に膨らんでいた。旅館を手放すことも検討したが、買い手が見つからない。売上規模からすると絶望的な借入金額。そのままでは、自宅も旅館も全て失ってしまう。

当時、宮崎社長は自動車メーカーのホンダで燃料電池の研究開発に従事。充実した毎日を過ごしていた。家業を継ぐことは考えたこともなかった。だが、1カ月後にはホンダを辞職。陣屋の4代目に就いた。
「10億円の借金は、サラリーマンを続けていて返せる額ではありません(笑)。そうした事情もありましたし、祖父の時代から宮崎家が守ってきた旅館を存続させたいという想いが強かった。それを人に任せて失敗したら後悔するだろうという想いがありました」
設計、実験、そして検証と改善を繰り返してきた一流エンジニアの目に、旅館経営はずさんに映った。
宮崎社長が何より危機感を覚えたのは、場当たり的な対応ばかりで、根本的な問題解決のアプローチが取られていないことだった。それが長期間続いてきた弊害は、売上や利益の減少だけでなく、「評判」や「信頼」といった目に見えない資産をも食いつぶしていた。


例えば「空室を減らす」という目の前の問題を解決するために、安いプランを打ち出していた。客数は維持できたが、料理のグレードは下がる。行き渡った接客もできない。「陣屋も質が落ちたな」という悪評判につながった。目先の「稼働率を上げる」ことが、顧客満足にも会社の利益にもつながっていなかった。
「それまでは社長である女将の指示で現場が動いていました。その他の従業員が自ら能動的に考えたり行動する習慣が全くなかった。長年の経験や知識がある女将の頭の中にアクセスできるようなシステムを作れないかと考えたのが『陣屋コネクト』を開発したきっかけです」

当時、人件費や料理の原価、そして顧客情報を一元管理する旅館業界に特化したシステムは大手から販売されていた。しかし「クラウド対応しているか」「自由なカスタマイズは可能か」といった選定基準、そして限られた予算内でという条件を満たすものはなかった。「なければ自分で開発しよう」。理由は至ってシンプルだった。
宮崎社長がホンダ時代に学んだのは「常に開拓者たれ」という精神。暗闇の中で自ら松明を持って先頭に立て。何か問題が起こったら自らの判断と知恵で乗り越えろ。こうした精神を叩きこまれた。

「私が所属していたホンダの基礎研究部門は『コア技術は自分が作れ』という方針を徹底していました。エンジンや燃料電池といった基幹技術は他から買うのではなく、自らが開発して進化させろという考えです。ですから、旅館のコアシステムを自分で作るというのは、自分の中では当たり前の発想でした」

急激な改革は反発も招いた。「若い社長がこの旅館をおかしくしている」。そんなことを言い出す社員もいた。IT化についてくることができないベテランは「私に辞めろということか」と陣屋を離れていった。
システムを導入しても使わない従業員には「一日一件でもいいから投稿しよう」と根気よく呼びかけた。社長や女将が率先してシステムを使い、スタッフが積極的に使う雰囲気を意識的に作った。見積書の承認や発注依頼などの書類決裁を社内チャットでしか受け付けないような運用に変えた。

最初はログインまでに10分かかるスタッフもいたが、「ATMでお金を下ろせるなら大丈夫」と励ましながら指導した。今では、すべての従業員が陣屋コネクトを使いながら働く風土になっている。
「現場の従業員は変わることに難色を示したり、個人レベルでは変革することで一時的に仕事が増えることもあります。それは陣屋でも起こった問題ですし、『陣屋コネクト』を導入する旅館でも同じようなことが起こるのです。そうした従業員の声を聞き入れて経営者が改革をやめるケースがありますが、それでは何も変わらない。そんな経営者には必ずこう言います。部分最適ではなく、全体最適を考えてください。それができるのは経営者だけなのです、と」

従業員満足の追求が「永続企業」に

改革は他にもある。「安売りプラン」をやめ、付加価値をつけたプランを打ち出していった。
 都心からのアクセスの良さや、歴史ある日本庭園を持つ強みを活かし、婚礼需要を取り込んでいった。式を挙げた旅館は夫婦にとっては思い出の場所。そのうちの何組かは記念日に宿泊してくれるようになった。値段は高くても「良い体験をしたい」「良い思い出を作りたい」といった客に向けた「ワントゥワン」の手厚い接客を徹底していった。

社長就任当時、1泊2食の客単価が9800円程度だったが、今は3万5000円と3倍超の単価アップを実現した。
客室の回転数は社長就任以前より下がった。それは単価を上げたからではない。2014年から月曜日から水曜日までの3日間を休館日にしたからだ。現在では「陣屋」の全従業員が週2日の休みを取れるようにした。この待遇は旅館業界では異例のことだ。

「業務の効率化や黒字化には成功したものの、相対的に従業員満足度が上がっていないという反省がありました。全員が決まった日に休みを取り、営業日はフルメンバーでおもてなしをする。それが結果的にCSにつながりますし、長期的には利益も増加する。そういう意味で、今後も客数を増やすより単価を上げていく方向で考えていきたい」

社長就任当初「立て直せなかったら住む家もなくなってしまう」といった危機感から、寝る間も惜しみ、スピード優先で改革してきた。安定した利益を生み出せるようになった今、従業員満足を考える余裕ができてきた。そして、それこそが永続的に利益を残せる組織を作る力の源泉になる、と宮崎社長は考えている。

「陣屋コネクト」のシステム販売に合わせ、陣屋の従業員たちは他の旅館の再生のためのコンサルタントとして出向する機会も多くなってきた。料理長が料理指導に赴く。仲居さんが接客を指導する。外に出て行くことで自らも刺激を受け、それが陣屋のサービス向上にもつながる。
「成長を実感できるかどうか、生涯チャレンジできるような場が与えられるかどうか。従業員にやり甲斐をもって働いてもらうためには、それが全てだと思います」
着物をまとったエンジニアの挑戦は、この先も続いていく。

                      *月刊アミューズメントジャパン2016年9月号掲載