No.10002120
パチンコ必勝ガイド×APJ「パチンコライターリレーコラム」
200円の手打ち台/バイク修次郎
「ブレない漢のパチンコ日報」連載②
今回は、パチンコを教えてくれた亡き父のお話です。昭和50年代。父は血の気の多い板前で、休日はパチンコに興じ、勝ったらご機嫌負けたら不機嫌となり暴走モード突入…私はビクビクしながら小学時代を過ごしていました。
そんなある日、父が手打ち台を抱えて帰ってきたのです。キョトンとしていると、「修次郎プレゼント! 新台入替で店長が200円で譲ってくれたわ。遊べ!」。はい、無茶苦茶! それでも、カラフルな役モノとチューリップが目に飛び込み心トキメキ、その日からパチンコの虜になりました。
銀玉が取り持つ縁で父とは仲良くやっていましたが、高校に入ってからは上から目線の言動に腹が立ち犬猿の仲に…。そこで20歳の頃家出をし、バイクのプロレーサーを目指したのですがセンスなく夢を断念。ならば、もう一つの夢であるパチプロや!
蛙の子は蛙。父と同じくどうかしていますが、英才教育が功を奏したのかパチプロ生活は順調で、年間1千万円程の収支を上げたことが話題となり、憧れだったパチンコ必勝ガイドで連載を持たせてもらう運びとなりました。
この時も父とは疎遠でしたが、心中では申し訳ない気持ちでした。パチンコライターという肩書はあれども、ほぼパチプロでしたからね。親族が亡くなった時に父と会い「何で喰うとるんや?」と聞かれた時も正直には言えず、誤魔化していました。
胸の内に後ろめたさを抱えつつライターになって10年程の頃、母から驚きの電話があったのです。「お父さんガンで余命1年ないで…」。が~ん、ヤバイク! と冗談を言える余裕はありません。焦ると同時に嘘をついたまま亡くなったら…という自責の念に駆られました。
そこで父へ告白の意を決し、右手に連載しているパチンコ必勝ガイドを握りしめ病室に入りました。「実はこの雑誌で記事書かせてもらって飯喰うてんねん」。父「ほお、パチンコ雑誌の連載は大したもんやないか!」。その言葉を聞いた途端、涙が溢れました。
人の道を外しパチプロになった私はてっきり叱られると思っていましたが、考え過ぎだったようです。その数カ月後に父は力尽きたのですが、あの時病室で言い残したことがあるのでこの場を借りて伝えさせてください。
「親父が買ってくれた手打ち台のお陰で、今は沢山の銀玉仲間に恵まれてる。パチンコを教えてくれてありがとう」
いつか旅立つその日まで、私は父から受け継いだパチンコの楽しさを伝え続けます。