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2026年07月06日
No.10005292

正しさと曖昧さのあいだにあるもの
【毎週金曜日更新】全日本学生遊技連盟・週刊連載コラム㊳

 正しさと曖昧さのあいだにあるもの
全日本学生遊技連盟職員・岸野楽人一番好きな機種は『L革命機ヴァルヴレイヴ』、最近の推し機種は『Lパチスロうみねこのなく頃に2』

前回のコラムで「正しい情報」と「曖昧さがつくる熱狂」の関係については、また改めて考えてみたいと書いた。

そんなことを考えていた矢先、ちょうどサッカーワールドカップが開幕した。私は学生時代、サッカーに打ち込んできたこともあり、ワールドカップが始まると毎日のように寝不足になる。今回も気づけば深夜まで試合を見ている。そんな中、ふと思ったことがある。VARは、本当にサッカーを面白くしたのだろうか。実は私は、VARが導入された当初、あまり賛成ではなかった。サッカーという競技は、審判が笛を吹かなければ反則にならない。その曖昧さが時に歴史に残る名場面を生み、議論を生み、熱狂を生んできたと思っていたからだ。

もちろん、その考えは今でもある。ただ、一方で今は必要な仕組みなのだろうとも思っている。一つの判定が瞬く間に世界中へ広がり、審判は笛一つで大きな批判を受けることになる。選手もまた、一つの判定や危険なプレーによって、その後のキャリアが左右されることもある。そう考えると、VARは試合を正しくするためだけではなく、審判や選手を守るための仕組みでもあるのだと感じるようになった。そんなことを考えながら試合を見ていると、あることに気づいた。この構図、どこかで見たことがあるなと。それが、今のパチスロだった。

4年に1度の祭典。毎日が楽しい

パチスロも、この数年で「正しさ」がより求められるようになったように感じる。解析情報は以前よりも細かく公開され、SNSでは内部仕様についての考察が毎日のように飛び交う。「この挙動には意味があるのではないか」、「ここには設定差があるのではないか」。そんな議論を目にしない日はない。もちろん、私はこうした流れ自体を否定したいわけではない。むしろ前回のコラムでも書いたように、私自身も情報には価値があると考えているし、有料情報を利用することもある。正しい情報によって立ち回りの精度は上がり、これまで見えていなかった世界が見えるようになることもある。情報が遊技をより深く楽しむきっかけになっていることは間違いない。

ただ、その一方で思うこともある。「正しいこと」が、本当に一番面白いことなのだろうか。サッカーのVARは試合をより公平にし、審判や選手を守る仕組みとして大きな役割を果たしている。同じように、解析情報はユーザーの理解を深め、不必要な疑念や誤解を減らしてくれる。どちらも必要なものだと、私は思っている。それでも、サッカーとパチスロの両方を見ていて感じることがある。情報が増えることと、面白さが増えることは、必ずしも比例しない。

最近よく聞く「デキレ」という言葉。SNSを開けば、「この挙動は冷遇ではないか」、「ここは優遇されているのではないか」といった考察が次々と流れてくる。もちろん、中には解析情報として明らかになっているものもある。しかし、確かな根拠がないまま広がっているものも少なくない。こうした文化が生まれた背景には、情報が増えたことが大きく関係しているのだと思う。以前であれば、「今日はツイていた」で終わっていた出来事も、今では内部仕様や抽選方式から説明されることが増えた。遊技者の知識が深まったことで、結果を考察する文化が根付いてきたのだ。私は、この変化自体は決して悪いことだとは思わない。むしろ情報が増えたことで、パチスロをより深く楽しめるようになった側面もある。

液晶上の演出と出目法則を知っているからこそ熱くなれる瞬間

一方で、情報が増えたからこそ失われつつあるものもあるように感じている。それは、分からないことを考える楽しさだ。私は前回のコラムで、有料情報には価値があると書いた。その考えは今も変わっていない。情報を得ることで立ち回りの精度は上がるし、新しい視点を知ることもできる。だから情報は、これからも必要なものだと思っている。

ただ、それと同時に思うこともある。パチスロの面白さは、知ることだけではなく、考えることにもあるのではないだろうか。例えば、目の前で起きた挙動に「何か意味があるのではないか」と考える時間。SNSでさまざまな考察を見比べながら、自分なりの答えを探していく時間。そうした過程そのものが、パチスロという遊技の面白さの一つになっているように感じる。だから私は、もしすべての解析情報が最初から公開され、内部仕様が完全に明らかになった世界を想像すると、少し寂しさも感じてしまう。考察は必要なくなり、正解が最初から用意される。それは間違いなく便利だ。しかし、便利になることと、面白くなることは同じではない。

情報が増えたことで、私たちは多くのことを知れるようになった。それはパチスロに限らず、スポーツやさまざまなエンターテインメントでも同じだ。正しい情報は人を守り、公平さを生み、新しい楽しみ方も与えてくれる。一方で、曖昧さは時に熱狂を生み、人を夢中にさせる。その反面、疑念や憎悪を生むこともある。サッカーで言えばVARがその象徴だろう。判定はより正確になった一方で、その判定を巡る議論がなくなったわけではない。パチスロも同じように、解析情報によって理解が深まる一方で、「デキレ」や「冷遇」といった言葉が生まれ、新たな議論が広がっている。

今私は、『スマスロ ソードアート・オンラインⅡ』のBAR図柄が揃う時と揃わない時の違いを考察中。版権愛もあり、個人的直近No.1の台だ

だから私は「正しさ」を求める流れそのものは決して間違っているとは思わない。ただ、すべてを正しくすることが、必ずしも一番面白いとは限らないとも感じている。

正しさは、人を守る。

曖昧さは、人を熱狂させる。


この二つは、決して対立するものではなく、その間でバランスを取り続けているからこそ、スポーツも、パチスロも、私たちを惹きつけるのではないだろうか。だから私は、これからも情報を追い求めるだろう。ただ、その情報から答えを得るだけではなく、答えを探す時間も大切にしていきたい。

文=岸野楽人(全日本学生遊技連盟)


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